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(2008年 6月) 例えば今、細菌感染が原因で痛みが起こっているとしましょう。 このとき、現象としての痛みを抑えることも大切ですが、 原因となった細菌を取り除くことはさらに大切です。 そうしてもっと大切なのは、 細菌の繁殖を簡単に許すような体質を改善することであり、 そのような体質を生み出した生活を正すことであり、 さらに、生命についての知識や感性、意識を深めていくことでもあるのです。 現象としての痛み 現象としての細菌 それを許した体質 生命への感性 それら全て包み込む意識 といった順に、物事は深いレベルに達していきます。 − 大いなる生命学 青山 圭秀 書 −より |
(2008年 5月) ブラーマリー呼吸法は、 霊性面できわめて有用なプラーナヤーマです。 三次元の気づきを発達させることによって、全身を感じるでしょう。 ブラーマリーが終わると、引き続き共鳴が続いています。 そして全身にわたり、さらに肉体を超えて振動を感じることができるでしょう。 だんだん気づきは、身体を越えたところにある、 全面の気づきへと広がっていきます。 『プラーナヤーマを行うと、 心の輝きを覆っていたヴェールが消えてなくなってしまいます。』 (ヨーガスートラU−52) この気づきこそ、身体の気づきを越えたところにあります。 - 『プラーナヤーマの秘密』 H・R・ナーゲーンドラ 著 -より 小宮山 昭三生 訳 |
(2008年 4月) プラティヤハーラ(感覚制御)の必要性 人は、欲望をいだくと、それを果たして楽しむ。 しかし、楽しむときに、 感覚器官を欲望の対象に向けて働かせている間は、 決して本心の満足を得ることができず、その欲望は倍加する。 これに反して、もし感覚器官を “内なる自己”に向けて働きかけることができると、 直ちに本心の満足を得ることができる。 それゆえ、この世の欲望を“果たしきる”ためには、 随意神経の生命エネルギーを自分の内側に振り向ける プラティヤハーラの方法をとることが望ましい。 人は、自分の地上の欲望がすべて果たされて、 それらによる束縛から解放されるまでは、 何度でも生まれ変わって来なければならない。 − 『聖なる科学』 スワミ・スリ・ユクテスワ 著 −より |
(2008年 3月) 生殖は自然な生物学的現象で、 普通は、子供を生むのに特別の努力はいりません。 ですが、最も賢い動物とされる人間が、 なんの努力もせずに子供が生まれるのを待っていてもよいのでしょうか。 健康な子供を生むための計画は結婚前に始まります。 二人とも健康を保ち、体質の均衡をとり、 精子と卵子の質がよくなるように心がけることが大切です。 その為には、まず、 強精剤と特定の薬剤を添加した薬用ギーを用いた スネーハナ(油剤法)を行います。 つづいて、スヴェーダナ(発汗誘発)を行います。 それから、催吐法・催下法・停留浣腸・浄化浣腸といった 浄化法を代わる代わる行いますが、 それぞれの浄化法の前に、 必ずスネーハナとスヴェーダナを行い、 徐々に食事制限を厳格にしていきます。 − アーユルヴェーダ式育児学 − V.B.アタヴァレー著 潮田妙子・クリシュナU.K.訳 |
(2008年 2月) 私たちが好むと好まざるとにかかわらず、 人生は素晴らしい喜びと悲惨の間を揺れ動きます。 喜びがあれば、悲しみがあります。 ヨーガは一人一人の個人を、こうしたいろいろなつらさ、 悲惨さ、苦痛から切り離していくためにあります。 そんなものに負けないで、 そこからもっと違う高い次元に行くためにヨーガをやるわけです。 これがヨーガの目的です。 健康と幸福と、両方をヨーガから得てほしいと思います。 肉体のヨーガは健康を持ってきます。 そして、心のヨーガは幸福を持ってきます。 肉体のヨーガさえしていればいいんだと思わないで下さい。 そこが出発点なのですから。 本当に素晴らしい価値ある心の平和、 心を満たす喜びがその奥にあることを知って下さい。 − ヨーガと命の科学 スワミ・チダナンダ講演 − より 小山 芙美子編 |
(2008年 1月) 人間は本来神聖である。 霊魂は神以外の何ものでもないのであるから、 人はあらゆる面において神となる可能性をもっている。 どのような行いがあろうとも、それがどんなに乱暴なものであろうとも、 彼が自分の行為のために永久に呪われる、などということはない。 罪は、無知ゆえに犯されたところの誤り以外の何ものでもないのである。 そのような罪のためには、われわれはもちろん、 現世または来世において苦痛を味わわなければならない。 しかしながらそのような苦痛を通して、われわれは次第に賢明になり、 幾度も生を重ね、ついには内なる神性を完全に悟るのである。 すべての人がこの恵まれた目標に到達することになっている。 それだから、罪人は非難されるべきではない。 同情をもって接し、無知から抜け出せるよう助けるべきである。 − 『ヒンドゥイズム』 スワミ・ニルヴェーダーナンダ著 −より |
(2007年 12月) バターと甘味をもって味付けされた食物、胃の4分の1を空けておくこと、 ただ生命への愛だけから食事をすること、 これが節食といわれるものである。 辛いもの、酸っぱいもの、刺激性のもの、塩辛いもの、熱いもの、葉っぱ、 ビンロージュの実、ごまの油、ごま、からし、酒、魚、羊肉等の獣肉、 凝固した牛乳、水でわったバターミルク、クラタ豆、ジュジュベの実、油であげた菓子、 ヒングウ樹脂、にんにく等は行者には不適当な食物といわれている。 また次のようなものも不健康な食物と心得るべきである。 一旦冷えたものを温めた食物、油気がなくて乾いた食物、 過度に塩辛いもの、酸味をおびたもの、不消化なもの、野菜、 ウトカタ(ある植物の皮で作った香料)等は避けるがよい。 行者にとって好適な食物は次の如くである。 小麦、米、大麦、早稲米、優秀な穀物、生乳、バター、氷砂糖、白砂糖、 密、干し生姜、きゅうりなどの5種の野菜、豆類、清水等である。 またヨーギーは栄養になる食物、甘味のあるもの、 バター入りの食物、牛乳入りのもの、体力をつけるもの、 その他自分の好む適当なものを食するがよい。 ハタヨーガ・プラディーピカー T−58〜63 − 『ヨーガ根本教典』 佐保田 鶴治著 −より |
(2007年 11月) この1週間、お前は暇さえあれば傷口を眺めてそれを気にしていただろう。 いいか、お前のように神経を過敏にして、毎日、傷口や病気を気にしていたら、 治る病も治らないし、傷口だってふさがらない。 病を治す秘訣は、この犬のように病や悪いことを忘れてしまうことなのだ。 健康を回復させ、また保ちたかったら、心の状態をまずプラスへ持っていく、 かりにもマイナスの気を呼び込むようなことはするな、 心に負担を与えるようなことはするな、ということになる。 治らないと思い込んでいたのでは現実もそのとおりになるぞ、 と言っているのである。 − 『ヨーガに生きる』 おおい みつる著 −より |
(2007年 10月) はるか昔には、日本には茶というものは存在しなかった。 平安の時代、遣唐使とともに、中国から渡ってきた。 茶は精神を落ちつかせ、眠気をさますものである。 昔の中国の医者たちは、 人の身体から油を抜きだすとして茶はよくないといっていた。 だが、今では朝から晩まで茶を飲んでいるが、 身体に悪い影響はないようだ。 しかしだからといって一度にたくさんの茶を飲むのはよくない。 抹茶は茶の成分が強い。 煎茶は、茶の葉を煎ったり煮たりするので穏やかだ。 日頃は煎茶を飲むのがいい。 食事のあとに、熱い茶を飲み、消化を助け渇きを癒すのはよいことだ。 茶に塩を入れてはいけない。腎臓を悪くする。 空腹のときは、茶を避ける。胃腸を悪くする。 濃茶を多く飲んではいけない。気持を沈ませるからだ。 虚弱な人や病弱な人は、新茶を飲んではいけない。 眼病、情緒不安、下血、嘔吐、下痢などがおこりやすい。 − 『養生訓 現代文』 貝原 益軒 著 ー 森下 雅之 訳 より |
(2007年 9月) チャクラというのは、 ヨーガの修業をつんだ人が見ることの出来る一種の光の輪のことである。 チャクラは人体の脊柱に沿って、 尾?骨から頭頂まで6つあるいは7つ数えられている。 臍のチャクラ及びより上位のチャクラは、 人間の意識に影響を及ぼす諸力を受け入れる入り口である。 憎しみの情動はすべて臍のチャクラに作用するが、愛の情動は心臓に働く。 愛は下の者に向けられるとき「慈悲」である。 上の者に向かう愛は「崇拝」である。 対等な者の間における愛の特質は「助け合う欲求」である。 憎しみは、下へ向けられるときは「軽蔑」であり、 上へ向けられた憎しみは「恐怖」である。 対等な者の間の憎しみは「傷つけあい」である。 愛とは霊的なものであり、憎しみは物的なものである。 ― 『チャクラ』 C・W・リードビーター著 ― より |
(2007年 8月) アーユルベーダとは生命の科学ですから、 単に病気や病人だけを対象とするのではなく、 洞察に富む生命観に従って、生命に包括的にアプローチするものです。 包括的という意味は、 病気を治すとか、体の部分を治すというだけではなく、 生命全体にアプローチすることで、 病気の治癒と健康の維持増進や長寿などを目的とするものなのです。 さらには、人生における役割の遂行、富や愛を得ること、 そして「自己実現」つまり解脱や悟りという 人間としての進化を目指すことを究極の目的としているのです。 つまりヘルス以上のウェルネスを目指しているのです。 − 『なぜ人は病気になるのか』 上馬場 和夫著 − より |
(2007年 7月) ヨーガとは心の働きを滅することである。 そのときには、見る者(真我)は自己本来の状態に安住する。 その他の場合には、真我は心のはたらきと同じ形をとる。 心のはたらきは5種類で、煩悩性のものと非煩悩性のものとである。 心のはたらきは、修習と離欲とによって滅せられる。 修習とは、心のはたらきを静止する為の努力である。 修習は、長い間、中断されることなく、専念して実行されるとき、 堅固な境地に到達する。 − 世界の名著T 『バラモン教典・原始仏典』 − より |
(2007年 6月) インド精神は2つの面をもっている。 すなわちヴェーダとヨーガとである。 インド精神のもつ多彩な着想のなかにあって、 ヴェーダはバラモンたちの祭式のうえでの技巧, ヨーガはヨーガ行者たちのある種の行動に対する熱情といえよう。 ヴェーダは知識であり、ヨーガは力である。 ヨーガは一種の使命であり、厳しい肉体鍛錬なのであって、 信ずることとか知ることではなく、絶対的孤独の中での試練である。 この絶対的孤独は、群集の中にあっても現存する。 − 『ヨーガ』 ポールマッソン・ウルセル著 − より |
(2007年 5月) 幸福な人生というのは、 精神と肉体ともに病気に冒されていない人、 若々しく、能力にふさわしい体力、勇気、名声、 すぐれた行為、大胆さを持っている人、 知識、学問、 元気な感覚器官とその器官の対象となるさまざまなものを持っている人 富と楽しみがあって、 好きなこと何でもやってみることが出来て、自由に行動できる人、 こういう人の人生は、幸福な人生である。 そうでない人は、不幸な人生である。 − 『アーユルヴェーダ入門』 クリシュナ・U・K著 − より |
(2007年 4月) 心の清澄を保つにはこのスートラを覚えておくとよい。 幸福な人に出会ったら、友愛の鍵を使い・・・『慈』 不幸な人に出会ったら、憐憫の心を持ち・・・『非』 徳の高い人に出会ったら、欣喜し・・・・・・・・『喜』 邪な人に出会ったら無関心の態度をとる・・・『捨』 相応の鍵を相応な人に用いれば、 あなたは、あなたの平安を保持することができる。 ヨーガスートラ T章33節 − 『インテグラル・ヨーガ』 スワミ・サッチダーナンダ著 − より |
(2007年 3月) あらゆる場所に水を求めて、 井戸や浅い穴をいくつも掘ってはいけません。 一箇所に深い穴を掘りなさい。 一つの井戸からたっぷりと水を飲みなさい。 複数の人や、複数の霊的な道に従うと、 混乱してジレンマにおちいります。 1つの意志は1つのことをあなたに命じ、 別の意志はまた別のことをあなたに命じます。 すべてに耳を傾け、1つに従いなさい。 すべてを敬い、1つを崇拝しなさい。 − 『瞑想をきわめる』 スワミ・シヴァナンダ著 − より |
(2007年 2月) 自制心は書物の勉強から学ぶ事はできません。 問題と苦難だらけの試練のときにこそ、自制心が育まれるのです。 人間にはたくさんの欠点が潜んでいます。 苦しい状況のなかで、それらの欠点が 怒り・恐れ・傲慢さ・憎しみといったかたちで現れてきます。 そのようなときこそが、自制心を実行に移さなければならないときなのです。 善い行いに対しては善い行いを返すことができます。 しかし、悪い行いに対して善い行いを返す事は特別な資質であり、 そのような美徳を実践するには相当の力量が要求されます。 どのような状況においても、自制心を失うべきでなく 不動の心で内なる平安を楽しんでいるべきです。 − サイババの御言葉集より − |
(2007年 1月) 幸せは自分の心の内にある、 輝きも、平和も、やすらぎもまた。 宇宙の真理を求める人は 自分の内をみつめることから始める。 永遠不滅の真理は、すべての物の中に在り、 すべての物は、不滅の真理に帰る。 永遠の真理には、 上下も生死も、区別がない。 〜 スワミ・シヴァナンダ 〜 − 「ヨーガとからだの科学」 スワミ・ヨーガスワルパナンダ 著 − より |
(2006年 12月) たとい 100歳の寿(いのち)を得るも 無上の法(おしえ)に 会うことなくば この法(おしえ)に会いし人の 1日の生(しょう)にも及ばず よき経(おしえ)を いかに多く読むとも 怠りて正しく行なわずば 人の牛を数えるに似たり − 「法句経入門」 松原泰道 著 より − |
(2006年 11月) 他の何者でもない、われわれこそが、われわれの苦しみに対する責任者である。 われわれは結果であり、われわれは原因である。 それだから、われわれは自由なのである。 もしわれわれが不幸であるなら、それは私自身のなせるところであって、 このことがそのまま もし私が幸福になろうと思えばなれる、ということを示しているのである。 もしわたしが不純であるなら、これもやはり私自身のなせるところであって、 この事実がそのまま 私はなろうと思えば純粋になれる、ということを示しているのである。 人間の意志は、一切の環境を克服するであろう。 それの前には、すなわち人に内在する強い、巨大な、無限の意思の前には、 すべての力が、自然力さえもが、頭を下げ、屈服し、 それの召使とならなければならないのである。 これが、カルマの法則の結果である。 − 日本ヴェーダーンタ協会 「カルマヨーガの講和」 − より |
(2006年 10月) ウポワズ(お断食)とは、 自分の本性である神に還ることである。 自分を捨て、謙虚な心になって 大自然に全託する至高の行法である。 ウポワズ行法を実践していると、 食べない楽しみを味わう境地が生じてくる。 空腹時の心身の爽快感を味わえる人間になることは、 貪欲のカルマからの解脱である。 次元の高揚を示す。 − 「釈尊の食法とウポワズ」 前田 行貴著 − より |
(2006年 9月) 危険から護られるよう祈るのではなく 恐れることなく直面しよう。 わたしの苦しみの納まることを願うのではなく それを克服する心をこそ願おう。 人生の戦場で同盟軍を求めるのではなく われわれ自身の力をこそ求めよう。 救われることを心配しながら求めるのではなく わたしの自由を勝ち取る忍耐をば望もう。 わたしが、自分の成功のためのみに あなたの慈悲を当てにする卑怯者ではなく わたしの失敗の中にあなたの手の握りを発見する 勇者でありますよう。 − 「果物採取」 ラビンドラナート・タゴール著 − より |
| (2006年 8月) 食物は 命(プラーナ)あるものの 命(プラーナ)なり 世の人は 食物を競い求めるものなり 顔色も、気分も、美声も、命も、聡明さも、幸福も、 満足、滋養、体力、智恵も、全ては食物に依存している 口に糊する世俗の行為も、天界へ赴く祭式行為も、 解脱のためといわれる行為も、みな食物に依存している − [チャラカサンヒター T−27−349] − より |