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  今 月 の 言 葉   
                       (2010年 6月)

                        あなたの敵

           思いやりの心と愛の心を培うには
                      寛容な心を持つことが大事です。
           それには「敵」こそがまたとない存在なのです。
           敵は静謐で寛容な心を養うのに
                      最も役立ってくれるからです。
           私たちにとって「敵」に向けて抱く怒りと憎しみは
                常に有害であり
           私たちの心を鍛えその負の力を弱めるように
                           努めなければなりません。
           そうでなければ怒りと憎しみはいつまでも私たちを妨げ、
                 静謐で寛容な心を養おうとする努力を
                            くじこうとするでしょう。
           怒りと憎しみが私達の本当の「敵」なのです。
           これこそが私たちが立ち向い克服すべき相手なのであり
           人生に時として現れる一時的な「敵」は
                       真の敵とは言えないのです。

          − ダライ・ラマ法王14世   平和へのメッセージ −より

 (2010年  5月)

嫌いな“プラス志向

今やたらとプラス志向がもてはやされているが、
僕はその言葉があまり好きではない。
僕はそんなに悩まないたちだから、「プラス志向ですね」と、よくいわれる。
努力が嫌いで、
何事も自分が楽しむほうにもっていってしまうという意味では、
プラス志向なのかもしれない。

でも、それはマイナスから逃げようとして、
プラスのほうばかりを向いているということではない。
マイナスの局面に立ったときにも、
それはあたりまえにあるものだと思っているだけのことなのだ。

どんなことも起こりうる。
そう思うから、コンサートで突然篳篥の音が出なくなろうが
あまりパニックにならないし、怖くない。
しかしそれを、自分でプラス志向などとは思わない。

その言葉を発した瞬間に、
作為的に自分を演出しようとする無理が出てくる。
「僕はプラス志向だから・・・」なんていう人は、
きっとかなり無理をして、そういう自分を演じているのかもしれない。
それは自分が本当は、マイナスがベーシックなんだということを、
浮き彫りにしているだけのように思える。

プラスだけでは、いい音楽も芸術も生まれない。
マイナスの部分も見据えて、それを受け入れていく力があってこそ
魂を揺さぶる音楽や芸術が生まれてくるのだ。


− 『雅楽・・・僕の好奇心』   東儀 秀樹 著 −より
                       
                       (2010年 4月)

                        音楽と神

  人間っていうのは音楽を頭や耳以外の部分でも感じてることってたくさんあると、
  僕はよく言っています。なんだかよく分からないけど、血の成せるものというのも
  どこかにあるんじゃないかと思っているんです。
  例えば宮内庁楽部の楽師さんたちには、1300年前から続いている楽家の血が
  入っている人と、最近新たに入ってきた人とが、25人のうち今は半々ぐらいです。
  でも昔ながらの血筋の人間が50%もいればかなりの血筋の集団です。
  僕は中にいる時はあまり気が付かなかったけれど、外に出てみて演奏を観察して
  いると、そういう人たちの演奏には、僕の中に血があるからかもしれないけど、
  上手い下手でない何かを感じることはすごくあります。それは何か、はっきりと結論
  はでないけれど、例えば芸大にも雅楽部があるし、他の民間の雅楽団体もいっぱい
  あるんですが、
      それが平安時代の空気を伴っているかというと、
             技術はあっても何も感じないこともあるんです。

  音楽というのは音程をぴったり当てて、それを守ればいいのか、というと決してそんな
  ことはない。耳や目で感じない奥の力というのがそこにあるような感じがするんです。
  
  ドイツの哲学者でシュタイナーという人がいます。彼は音楽にすごく興味があって、
  音楽の分析もしていて、目で見る美学と耳で聞く美学との一番大きな違いは、
  精神の部分で感じるのが耳で聞く美学だということです。

  例えばコンサートを聞きにいって、そのあいだ寝ていても、どこかで聞いていることが
  できる美学が音楽であると。音楽はシュタイナーによれば、神界という神の領域で
  作られるものだと言うんですよ。それが人間に降りてきて、聞く側も作る側もそこで
  リンクしあって感じる美学が音楽だと。
  
          − 『雅楽のこころ 音楽の力』  東儀 秀樹 著 − より          

(2010年 3月)

ケイシーはすべての人に対して、
祈りや瞑想そして他人への奉仕ということに関し、
積極的となることが大切だと強調しました。

彼は祈る人とは、神に語りかける人であるといいました。
これとは反対に、瞑想は聴く技術を通して、神へ波長を合わせることです。
瞑想は、より明瞭な画像を得るために、
テレビのつまみをより正確に合わせることと似ています。
この神との交流は、
身体の中の霊的中心、あるいは内分泌腺を通して起こります

瞑想は、我々の正しい出生を思い起こさせ、天国で、
かつて神なる父と共にあったときのあの一体感に帰るのです。
瞑想なくして、個人が神を知ることも、我々すべてに対する
あの神の絶大な愛を体験することも不可能です。

瞑想と祈りほど、
霊的水準を高める意味で大きな力をもつものはありません。
結局、祈りは、手を折りまげて神に語りかけることですが、
瞑想は、あなたの手、精神、心を神にまで伸ばすことになります。
そしてその結果、神の手があなたの中に届くことになるのです。

− 『瞑想の道標』    エルセ・セクリスト 著 −より
         林   陽   訳


(2010年 2月)

死がおまえの戸口を叩く日に、おまえは、何をささげるつもりか?
おお、わたしは、なみなみとわたしの生命をたたえた盃を
客人の前にさしだそう− けっして素手では客人を帰しはすまい。

秋の日 夏の夜をかけて 私が造った美酒のすべてを、
あくせく働きつづけたわたしの人生の 収穫と蓄積のすべてを、
わたしは 客人の前にさしだそう−
死がわたしの戸口を叩く人生の終焉の日に。(90)


わたしが地上を去るとき、別れのことばに、こう言って逝かせてください−
「この世でわたしが見てきたもの、それはたぐいなくすばらしいものでした」と
「光の海に咲きほこる この蓮華の秘められた密の甘さをわたしは味わった。
こうしてわたしは祝福されたのです」−
これをわたしの別れの言葉にさせてください。

「無数の形からなるこの劇場で、わたしは自分の役を演じてきました。
そしてここで わたしは 形のないあのかたの姿を見たのです。」
「触れることのできないあのかたの御手に触れ、
わたしの体も手足も よろこびにふるえました。
いまここで、生命が終わるなら、終わらせてください」

これを わたしの別れのことばにさせてください。(96)

− ギタンジャリ  R・タゴール著  −より
        森本達雄  訳註


(2010年  1月)

かつての病気は、細菌や外敵などの自然環境が原因となりました。
しかし西洋医学の目覚しい進歩で、ほとんどの外因性の病気に対しては、
的確に対応できるようになってきました。
しかしストレスの多い社会環境の影響によって生まれる、
ココロの病が原因となる心因性の現代病に対しては、
薬や手術を中心とした西洋医学では、とても対処できなくなってきたのです。
・・・・・・・・・
現代病は自分のココロがつくり出すものならば、対症療法に加えて
根本的な問題としてのものの考え方や、性格などの、
精神的な面を強くすることが大切です。
    そこで人間をトータル的にみていく、東洋的な考え方が見直されてきたのです。         

ヨーガはアーサナで身体を整え、呼吸法で心身を整え、
瞑想法でココロを整えるというように、

心身両面から健康への効果が期待できるのです。

だからアーサナも呼吸法も、
すべて瞑想法としてのココロの安定をつくり出す手段なのです。
つまりヨーガにおいては、
精神的な効果こそが本命といえましょう。

− 『ストレッチヨーガ』 綿本 昇 著 −より

                       (2009年  12月)

                     《 T 霊魂の法則  》

  人はみな霊的存在である。
  「スピリットの法則」ともいいますが、これは「八つの法則」の大前提となる法則です。
 
  私たち人間は、単なる肉体だけの存在ではありません。
  私たちはみな、たましいのふるさとである霊的世界からこの世に生まれ、
  自分の未熟さを克服する学びをしています。
  この肉体は、この世を生きている間だけ借りている乗り物のようなもの。
  誕生とともに肉体に宿った私たちの霊魂は、死と同時にまた肉体を離れますが、
  死後も、霊的世界でたましいとして永遠に生き続けるのです。

  この真実を知り理解することで、人生はより輝きを増すでしょう。
  なぜなら、「人は死んだら無になる」という刹那的な思いから解放されることで、
  人生に起きる三つの苦しみも克服できるからです。

  その三つとは、死に対する恐怖心、死別の悲しみ、そして人生を不幸と思うこと。
  死はふるさとへの里帰りであり、恐れるものではないことがわかるでしょう。
  そして、どのような苦難も、たましいを成長させるための大切な経験。
  ですから、この世に“失敗”はないのです。
      
               「人生の地図」を持つための八つの法則  
               〜 江原 啓之 スピリチュアル講座 〜より 
             
                     (2009年  11月)

        「いい人」でなく「幸せな人」を目指せば運気もアップ!

  人として大切なのは、努力して「いい人」になることではありません。
  自分を幸福にすることが大事なのです。それは同時に、あなたを運のいい人にします。
  運というのは、自分と人、あるいは自分と環境(出来事)との関連性のことです。

  「雅楽を聴いてみたいと思っていたら、そのことを知るはずもない友達が偶然コンサートに
  誘ってくれた。」 ・・・
  運のいい人は、欲しいと思ったものがすぐ手に入ったり、思わぬ助けがもたらされたりします。
  この、自分と環境との関係性(運)は、「自分の手ではどうにもできないもの」ではありません。
  幸運は、自分で引き寄せることができます
 
  運がいいか悪いかには、明らかに「自分の状態」が関係しています。
  自分がおだやかでリラックスして安心して幸せでいると、環境との関係性がよくなります。
  反対にこころが緊張していたり、無理をしていたり、オージャスが少なくて弱っている人は、
  環境からはなかなか手助けしてもらえません。
  いい人になろうと一生懸命になると緊張が増し、自分にストレスをかけ苦しみを生みます。
  その状態が、運のよさをドンドン遠ざけてしまうのです。

   ж こんな工夫をして!
       目指すべきは「自分を満たし、幸せにすること」
       リラックスして幸せでいるあり方が、あなたの運を高めます。

              − 毒を出す生活・ためる生活  蓮村 誠 著 − より
                
                       (2009年 10月)

         Q 水を一日2リットル以上飲むと健康によいって本当?
         A うそです

   ■ 水より白湯を飲みましょう
    水は確かに身体に必要なものですが、水のまま飲むと身体を冷やします
   アグニの強い人ならたくさんでなければかまいませんが、一日に1リットル以上の水を
   常温で飲み続けるとアグニが弱り、さらに腸の中の栄養も流れてしまうので、だんだん
   消耗してきてしまいます。
   ダイエットの目的で水をたくさん飲む人もいますが、健康を害してしまいますから止めて
   ください。
           アグニを高め、腸のクリーニングにもよいのが
           よく沸かした白湯を一日に700〜800mlほど飲む方法です。

   ■ 胃腸をきれいに保つ方法
    まず朝起きたらおいしい白湯をつくりましょう。
   そしてできたてをカップ一杯すすります。これは胃腸を温めアグニを高め、排泄を促しま
   す。そして、昼食と夕食のときに、カップ一杯の白湯をそれぞれ少しずつすすりながら食事
   をします。ご飯やおかずを食べて白湯をひと口、またご飯やおかずを食べて白湯をひと口、
   というように白湯をすすっていきます。
   そして最初の1、2か月ぐらいのあいだ、食事以外の時間帯にも、ときどき白湯をひと口、
   ふた口すするようにすると、アグニを高め、胃腸のクリーニングになりますから行うとよい
   でしょう。 仕事などで外出する際には、朝つくった白湯を魔法ビンに入れて持ち歩くように
   するとよいでしょう。
   そしてすする分だけカップに注ぎ、出来るだけ熱い状態で飲むようにしましょう。


             −  毒を出す食 ためる食    蓮村 誠 著 −より


( 2009年 9月)

 味と感情 =


感情にも特定の味と風味があり、その特性により身体に影響を及ぼします。
例えば、悲しみのような苦い感情や、恐れのような渋い感情は、
ヴァータを増悪させます。

嫉妬のような酸っぱい感情や、怒りのような辛い感情は、
ピッタを増悪させます。

欲望のような甘い感情や、貪欲のような塩気のある感情は、
カパを増悪させます。

感情は、不適切な食べ物や薬物、アルコールの摂取、
感染症などと同様な影響を身体に及ぼします。

むしろ治療においては、
心理的要因は生理的な要因よりも大きい影響力を持っています。

  ー アーユルヴェーダのハーブ医学 − より  
デイビッド・フローリー、ヴァサント・ラッド共著
上馬場和夫 監訳・編著


(2009年  8月)

[何かを]よりどころとしている人には動揺があるが、
[何も]よりどころとしていない人には、動揺がない。

動揺がなければ、安息がある。
安息があれば、心の傾き(執着)はない。

心の傾きがなければ、来るものも去るものもない。
来るものも去るものもなければ、
死ぬことも生まれることもない。
死ぬことも生まれることもなければ、
じつに、この世もなく、あの世もなく、両者の中間もない。

それこそがまさに苦の終結である。

− 座標軸としての仏教学  勝本 華連 著 −より

  

(2009年  7月)

紫色の推理

宇宙を現す数は[55]
それならばそれに対応して、宇宙の実相を示す色もあって当然で
それが[紫]である。
それでは何故、紫が宇宙を表現する至高の色なのか、以下はその推理である。

五行の色は、
木気の青、火気の赤、土気の黄、金気の白、水気の黒
の5色でこれを正色とする。

この純一の正色に対して、陰陽の混じた間色があり、これにも次の5種がある。
東の緑、南の紅、西の縹(はなだ)、北の紫、中央の黄

北天の太一の住居標示の色を北方の正色の黒とせず、
紫とするにはそれなりの理由があるはずである。

赤と黒の混合が紫という。
赤(火の陽)と黒(水の陰)から成り立ち、陰陽混合を示す色である。
陰陽の統合体とは、原初唯一絶対の存在である[太極]、その神霊化の[太一]である。

つまり紫色は宇宙そのもの、これにまさる尊貴の色はない。
紫とは、確乎とした理、法則の上からいって高貴な色なのであり、
単に感覚的に高貴な色として片づけ去ることはできない。

紫の背後には、
赤と黒 → 火と水 → 陽と陰 → 陰陽統合体 → 太極(太一)
という筋道が厳として貫いている以上、単純な推論は許されない。

− 陰陽五行と日本の文化  吉野 裕子 著 − より


(2009年 6月)

対立なければ運動なし

乾(けん)と坤(こん)の関係が易の核心である、と言ってもいい。
乾と坤とが対立することによって
はじめて変化すなわち易が成立するのだ。
乾坤のうち、どちらか一つがなくなれば、
変化すなわち易は成立しなくなる。
したがって、後に残ったものが乾であれ坤であれ、
その働きは終息するはずだ。

この節は、中国弁証法の一つである。
毛沢東は言っている。
すべての事物の内に含まれている
矛盾の側面の相互の依存と闘争とが、
すべての事物の生命を決定し、すべての事物の発展を促す。

どんな事物でも矛盾を含んでいないものはなく、
矛盾がなければ世界はない
。(矛盾論)


ー 中国の思想〔Z〕 易経 − より
   丸山 松幸 訳     松枝茂夫・竹内好 監修

(2009年 5月)

インドの哲学的叙事詩バガヴァッド・ギーターには、
“ヨーガは行為の技法である”と述べられています。

この説明は、単に狭い意味での肉体的行為だけを意味しているものではありません。
ヨーガは肉体を動かす“技法”を向上させる各種の運動であるばかりでなく、
心や感情に働きかける種々の技法も含んでおり、
人が生きる上での完璧な考え方までをも教えてくれるからです。

こうしたヨーガ実習の目的を達成するために、
私たちは生活のあらゆる局面における“技法”を磨き上げる必要があります。

インドの偉大な精神的指導者であったシュリ・オーロビンド師は、
ヨーガとは
「肉体と生気と感情と知性と宗教性の各次元に潜在している能力を開発して、
完全な存在にまで自分を完成させていく規則的な努力である」
と述べています。

- あなたもできる ヨーガ・セラピー -より
 R.ナガラートナ/HR.ナゲンドラ/ロビン.モンロー共著
木村慧心 監修   橋本 光 訳


                           (2009年 4月)

                            正しい食生活

                    【特に警戒しなければならないもの】
   
   (1) 牛肉・豚肉・鶏肉・卵・牛乳
   (2) 果物・生野菜・温室栽培物
       
    
日本人は果物をたべることの少ない民族だった。
    食べ過ぎるとその害毒がいろいろな病気をひきおこすことがわかっていたからである。
        「なり果物を敷地内に植えるな」
        「イチジクは病人のうめき声で成長する」
    などのことわざが残されているほどだから、ビタミンC過剰の恐ろしさは良く知られていた
    ようである。ビタミンCの過剰が心臓病や高血圧、冷え症や婦人病、眼病や蓄膿、
    甲状腺や前立腺肥大、神経痛やリューマチ、精薄児や肥満児などと重大な関係をもって
    いることもわかっていたらしい。
    生野菜もそれと同じ理由で日本人は特殊な料理の場合に調和をとるためにしか使わな
    かった。例えば、さしみのつま、てんぷらに大根おろしなどのときだけこれをそえたが、
    セロリやパセリの洋野菜の必要はさらさら感じなかったのである。
    キャベツのナマをきざんで食べるなどは、もっとも低劣な食べ方である。   

                 − 『玄米正食入門』  岡田 周三 著 − より


(2009年  3月)
     
自在天(じざいてん)   インド名(シヴァ)
   
日本や中国で願望成就の神として祀ってある自在天や縄神は、
破壊の神でありながらまた再生の神でもある
最高神のシヴァ神
のことである。
不老長寿・生殖を司どり、生類の神秘なる“生と死”をはじめ、
両極端を支配する神として、
残酷で優しく、怒り易く慈悲深く、禅定三昧の静的であるかと思えば、
ナタラージャ(舞踊の王者)と尊称されるように、ダンスの王者で動的でもある。
またヨーガの元祖であり、ヴィーナの奏者でもあり、
全くの自由自在の権化であるために、大自在天の名もある。

叙事詩マハーバーラタにおいては、シヴァ神はリンガ(男根)で象徴され、
以来、シヴァ・リンガ(シヴァ男根神=道祖神=金精神)と呼ばれ、
沸き出ずる力の根源として讃美され、
ヒンドゥー教シヴァ派神殿の本尊として、人々に崇拝されている。
このように、生殖器崇拝とシヴァ神信仰の融合は、
マハーバーラタの中で確立されたのである。

− 『釈尊の国からきた神』  前田 行貴 著 − より


                        (2009年  2月)

                    アーシュラマ(四住期)説

     ウパニシャッドにも多く言及されている典型的なインド人のライフスタイルに
     『アーシュラマ』(四住期)説がある。一人の人生に四つの経過時期を設定している。

 (1)ブラフマチャーリン(学生・梵行者)
   アーリア人の子は、一定の年齢(8ー12歳)に達すると、バラモン教のグル(師匠)に就く
   儀式を経て、その集団の正規の一員ドヴィジャ(再生族)としての自覚と確認がなされる。

 (2)グリハスタ(家住期)
   上の学習の期間を無事果たした青年は、生家に帰り、ただちに結婚して、家庭を作らなけ
   ればならない。

 (3)ヴァナプラスタ(林棲者)
   家長として社会への義務を果たし、後継者が順調に育って、後顧の憂いなしとなったとき、
   子に後事を託して森に隠遁することが許される。

 (4)サンニャーシン(遊行者)
   さらに人生の最終期においては、煩悩を離れ、世俗からはまったく縁を断ち、庵を構えるこ
   ともせず、居所を定めもつことなく、遍歴・托鉢の生活を送る。禅定・瞑想の時をもち、ただ沈
   黙を守り、ひたすら解脱に達すべく精進・遊行に時を過ごす。生への執着を持たない事はも
   ちろん、ことさらに死を望むこともなく、ただただ風に舞う木の葉のごとく、あるいは空をゆく
   流れ雲のごとく、身を任せる。


    四住期説は、四大目的説と並んで、人が何を求め、どのように生きるかについて、インド
    人の心の底に流れるモチーフを雄弁に物語り、開示するものということができる。

              −  『インドの思想』 川崎 信定 著 − より 

(2009年  1月)

ハタ・ヨーガはいかに成立したか?

インダス文明の遺跡から、女神像が発掘されていることからも分かるように、
古来からインドでは母神信仰が行われてきましたが、
アーリヤ人の侵入以降のヴェーダの時代からは
男性神や男性原理が中心になっていきます。
バラモン文化のなかで体系化が行われたヨーガにおいても、
女性の修行者や女性原理は除外されていたといえます。
しかし、ヒンドゥー教を支える民衆の心の根底には、
大地の力の象徴である地母神の信仰は面々と流れ続け、
やがて次第に表面化してくるようになります。

このような変化を背景に、ナータ派の時代には、
“ヨーギニー”と呼ばれる女性のヨーガ行者が現れます。
また、男性原理と女性原理の合一は、タントラの教えの中心になっていますが、
ヒンドゥー教においても男性神には必ず女性神が配されるようになります。

人間の身体を小宇宙とするハタ・ヨーガの身体観は
タントラから受け継がれたものなのです。
ハタ・ヨーガの行法に内包されているラヤ・ヨーガや
クンダリニー・ヨーガで行われるチャクラへの集中の技法は、
タントラのシャクティ崇拝の影響を受けて発達したものです。
ハタ・ヨーガの行法は、ムーラダーラチャクラに眠る
女性原理であるクンダリニーシャクティを目覚めさせ
男性原理シヴァの象徴であるサハスラーラチャクラまで引き上げ合一させる
という行法がその中心になっています

− 『ヨーガ・からだと心の浄化法』 堀之内博子 著 −より


 (2008年  12月)

嫉妬

嫉妬怒りが長く続いたものである。
羨むことは嫉妬の一つであり、憎しみの一つでもある。
避難、あざけり、ひやかし、不当な批判、あら捜し、中傷、告げ口、陰口、スキャンダル、愚痴、
これらすべてが嫉妬と憎しみから生じる。
心の鍛錬を欠き、卑しい人間性を示すだけだから、取り除かなければならない。
あざけりは、皮肉を込めてとがめること。 からかいは、冗談で人を悩ますこと。
冷笑は顔に表して軽蔑すること。 あざ笑いは、冷やかして笑うこと。
愚弄はからかってばかにすること。 ひやかしは人を笑い草にして楽しむこと。
冗談は巧妙な侮辱である。
社会の中で行動するには、これらのことは避けなければならない。
これらは友情を破り、憤りや敵対心を起こすもとになる。

話す言葉は柔らかく、議論は力強くなければならない。
激しい言葉は不和をもたらし、辛辣なひと言は長年続いた友情を瞬時にして壊す。
言葉や音には強力な力がある。
それは言葉として表れるブラフマンとしての力だからである。
・・・・・・・・・・
人のあらばかり捜していると、欠点ばかりを考え、自分もそうなってしまう。
人の明るい部分をいつも思っていれば、憎しみは消え、愛が大きくなる。

− 『 ヨーガとこころの科学』 スワミ・シバナンダ 著 − より

              
                    (2008年  11月)

       どのような食物の組み合わせが悪いのか、アーユルヴェーダでは
       14の項目にわたり詳しく検討していますので、紹介しておきましょう。

(1)土地    乾燥した土地の食物と湿地帯の食物を同時にとる
(2)季節    冬に冷たい非油性の食物、夏に辛みの強い熱い食物を継続して摂る
(3)消化力   消化力を無視した食べ方(常に腹8分目から6分目に)
(4)量      蜂蜜とギーを同時・同量摂る
(5)同調性   辛味・温かい食物の向いている人が、甘味・冷たい食物を多量に摂る
(6)調理法   調理中に毒が発生するもの(孔雀の肉をヒマシの木の串に刺して火で
          焼く)
(7)作用力   身体を温めるものと、冷やすものを同時に混食
(8)腸の性質  便秘の人に作用の弱い催下薬を少量使用、
           また下痢症の人にヴァータ・ピッタを増大させる食事
(9)摂取者の状態  疲労困憊した人・性行為後の人・重労働の人にヴァータを増大
             させる食事
(10)食べ方  排尿・排便がないのに食事をする。空腹感がないのに食事をする
          強い空腹感があるのに何も食べない。人気のない孤独な場所で
          食事をする。
(11)避けるべきもの  豚肉を食べた後に熱いものをとる。冷たい物の後にギー
               をとる。
(12)調理の仕方    腐った薪で調理した食物、生煮え・煮えすぎの食物
(13)不快感を与える食事、不快の味を与える食物
(14)時間     3時間以上かかって調理された食事


       − 『 美しく豊かに生きる』   イナムラ・ヒロエ・シャルマ著 −より


(2008年 10月)

人生は、人々に、価値あるレッスンを絶えることなく授けています。
母なるプラクリティー(自性)は、疎ましさを感じることなしに、
何度も、何度も人生体験の中に新鮮なレッスンを与えています。
もしあなたが、以前に経験したことの記憶を用心深く保持しているならば、
再び同じ過ちを犯すこともなく、また正直から離れることもないでしょう!
あなたは思慮深くなり智恵と卓越さのなかで、安全であり続けるでしょう。

心底からあなたが誰であるか忘れないでほしい。
運命における外見上の変化や浮き沈みに、関心を向けずにいなさい。
また、惑わしや不正に落ち込むことのないようにしなさい
常に人生のレッスンを思い出し、
過ぎ去っていくどんなことにも影響されずにいなさい。

ダーラが、いつも自分が羊使いであったことを思い出していたように、
常にあなたの真なる大本、アートマンを心に抱いていなさい。
有限な世俗的なエゴイズムに影響を受けないようにしなさい
自己の本質の飽くなき探検と、
あなたの本体、アートマンの栄光への常なる気づきをもちなさい。

− 閃きの物語(シヴァーナンダのインド説話50) −
第31話  正義の極意 

スワミ・シヴァーナンダ 著 より


(2008年 9月)

世の中ってなんていそがしくって、うるさいなと思ことがあるよね。
はやく、はやくはやくしなきゃって思うこともある。
すわっているときだってゆっくりしていられないなぁ と感じていない?
あたまにくるときでも かあっとならないようにするのは たいへんかも。
それに、おもいどおりにならないと ほんとうにいらいらするよね

だからね、こころのなかにしずかな場所をもっていることがたいせつなんだ。

そう、それが「めいそう=瞑想」するってことなんだ

毎日、からだに入ってくる息 
からだから出ていく息を感じながらすわっていると、
こころがおちついてくるんだ。

だから、前よりはらくーに、
かなしいできごとも受け入れられるし
おこってしまったことをかえようなんて思わなくなるんだ。


− こぶたくんのめいそう    ケリー・リー・マクリーン 作 −より 
                     日野原 重明  訳


(2008年   8月)

ヒンドゥー教とマホメット教の混成社会であったインドでは、
この2つの宗教の同調を優先して立ち向かうことが、
植民地支配者へのアピールとして重要であった。

その結果、
相対する2つの宗教を無理やり融合させようと見られたことで、
ヒンドゥー至上主義者に暗殺されることで命を絶ったが、
双方の民の自由を得たのである。

覚悟は[死して生きる]
無抵抗と不服従で目的を達成した。

ガンジーの語録には自身が言う。

明日死ぬかのように生きるのがよい。
そして、いつまでも生き続けるように学ぶのがよい

私は、いつ死んでもよい心の準備はある。
しかし、人を殺す覚悟をさせる準備などない。


− デス・エデュケーションのすすめ  竹下  隆 著− より


(2008年  7月)

クンバカとは、
息を止めることによって脳や神経や身体に緊張をあたえることではない。
クンバカは、
神経系に活気を取り戻すために行うものであるから、
脳をリラックスした状態で行わなければならない。

クンバカは、感覚と心を静める。
呼吸は、身体と感覚と理性を結ぶ橋である。

呼吸を止めている時間は、
ちょうど信号を待っている時間のようなもので、
信号を無視すると事故が起こる。
つまり、自分の能力以上につづけてクンバカすると、
神経系に異常を起こしてしまう。
脳や身体に緊張を感ずるということは、
クンバカ中
意識がプラーナの流れを追っていないということである。


− ヨガ呼吸・冥想百科  B・K・S・アイアンガー著 − より


(2008年  6月)

例えば今、細菌感染が原因で痛みが起こっているとしましょう。
このとき、現象としての痛みを抑えることも大切ですが、
原因となった細菌を取り除くことはさらに大切です。

そうしてもっと大切なのは、
細菌の繁殖を簡単に許すような体質を改善することであり
そのような体質を生み出した生活を正すことであり
さらに、生命についての知識や感性、意識を深めていくことでもあるのです。

現象としての痛み
現象としての細菌
それを許した体質
生命への感性
それら全て包み込む意識
といった順に、物事は深いレベルに達していきます。

− 大いなる生命学  青山 圭秀 書 −より


(2008年 5月)

ブラーマリー呼吸法は、
霊性面できわめて有用なプラーナヤーマです。

三次元の気づきを発達させることによって、全身を感じるでしょう。
ブラーマリーが終わると、引き続き共鳴が続いています。

そして全身にわたり、さらに肉体を超えて振動を感じることができるでしょう。
だんだん気づきは、身体を越えたところにある
全面の気づきへと広がっていきます。

『プラーナヤーマを行うと、
心の輝きを覆っていたヴェールが消えてなくなってしまいます。』
(ヨーガスートラU−52)

この気づきこそ、身体の気づきを越えたところにあります。

- 『プラーナヤーマの秘密』  H・R・ナーゲーンドラ 著 -より
              小宮山 昭三生   訳


(2008年 4月)

プラティヤハーラ(感覚制御)の必要性

人は、欲望をいだくと、それを果たして楽しむ。
しかし、楽しむときに、
感覚器官を欲望の対象に向けて働かせている間は、
決して本心の満足を得ることができず、その欲望は倍加する。

これに反して、もし感覚器官を
“内なる自己”に向けて働きかけることができると、
直ちに本心の満足を得ることができる。

それゆえ、この世の欲望を“果たしきる”ためには、
随意神経の生命エネルギーを自分の内側に振り向ける
プラティヤハーラの方法をとることが望ましい。

人は、自分の地上の欲望がすべて果たされて、
それらによる束縛から解放されるまでは、
何度でも生まれ変わって来なければならない。

− 『聖なる科学』   スワミ・スリ・ユクテスワ 著 −より


(2008年 3月)

生殖は自然な生物学的現象で、
普通は、子供を生むのに特別の努力はいりません。
ですが、最も賢い動物とされる人間が、
なんの努力もせずに子供が生まれるのを待っていてもよいのでしょうか。

健康な子供を生むための計画は結婚前に始まります
二人とも健康を保ち、体質の均衡をとり、
精子と卵子の質がよくなるように心がけることが大切です


その為には、まず、
強精剤と特定の薬剤を添加した薬用ギーを用いた
スネーハナ(油剤法)を行います。
つづいて、スヴェーダナ(発汗誘発)を行います。
それから、催吐法・催下法・停留浣腸・浄化浣腸といった
浄化法を代わる代わる行いますが、
それぞれの浄化法の前に、
必ずスネーハナとスヴェーダナを行い、
徐々に食事制限を厳格にしていきます。


− アーユルヴェーダ式育児学 − V.B.アタヴァレー著
    潮田妙子・クリシュナU.K.訳



(2008年 2月) 

私たちが好むと好まざるとにかかわらず、
人生は素晴らしい喜びと悲惨の間を揺れ動きます。
喜びがあれば、悲しみがあります。
ヨーガは一人一人の個人を、こうしたいろいろなつらさ、
悲惨さ、苦痛から切り離していくためにあります。
そんなものに負けないで、
そこからもっと違う高い次元に行くためにヨーガをやるわけです。
これがヨーガの目的です。


健康と幸福と、両方をヨーガから得てほしいと思います。
肉体のヨーガは健康を持ってきます
そして、心のヨーガは幸福を持ってきます
肉体のヨーガさえしていればいいんだと思わないで下さい。
そこが出発点なのですから。
本当に素晴らしい価値ある心の平和、
心を満たす喜びがその奥にあることを知って下さい。

− ヨーガと命の科学  スワミ・チダナンダ講演 − より
           小山 芙美子編  
      

(2008年  1月)

人間は本来神聖である。
霊魂は神以外の何ものでもないのであるから、
人はあらゆる面において神となる可能性をもっている。
どのような行いがあろうとも、それがどんなに乱暴なものであろうとも、
彼が自分の行為のために永久に呪われる、などということはない。
罪は、無知ゆえに犯されたところの誤り以外の何ものでもないのである。
そのような罪のためには、われわれはもちろん、
現世または来世において苦痛を味わわなければならない。
しかしながらそのような苦痛を通して、われわれは次第に賢明になり、
幾度も生を重ね、ついには内なる神性を完全に悟るのである。
すべての人がこの恵まれた目標に到達することになっている。
それだから、罪人は非難されるべきではない。
同情をもって接し、無知から抜け出せるよう助けるべきである。

− 『ヒンドゥイズム』  スワミ・ニルヴェーダーナンダ著 −より


(2007年  12月)

バターと甘味をもって味付けされた食物、胃の4分の1を空けておくこと、
ただ生命への愛だけから食事をすること、

これが節食といわれるものである。

辛いもの、酸っぱいもの、刺激性のもの、塩辛いもの、熱いもの、葉っぱ、
ビンロージュの実、ごまの油、ごま、からし、酒、魚、羊肉等の獣肉、
凝固した牛乳、水でわったバターミルク、クラタ豆、ジュジュベの実、油であげた菓子、
ヒングウ樹脂、にんにく等は行者には不適当な食物といわれている。
また次のようなものも不健康な食物と心得るべきである。
一旦冷えたものを温めた食物、油気がなくて乾いた食物、
過度に塩辛いもの、酸味をおびたもの、不消化なもの、野菜、
ウトカタ(ある植物の皮で作った香料)等は避けるがよい。

行者にとって好適な食物は次の如くである。
小麦、米、大麦、早稲米、優秀な穀物、生乳、バター、氷砂糖、白砂糖、
密、干し生姜、きゅうりなどの5種の野菜、豆類、清水等である。
またヨーギーは栄養になる食物、甘味のあるもの、
バター入りの食物、牛乳入りのもの、体力をつけるもの、
その他自分の好む適当なものを食するがよい。

ハタヨーガ・プラディーピカー T−58〜63

− 『ヨーガ根本教典』 佐保田 鶴治著 −より


(2007年  11月)

この1週間、お前は暇さえあれば傷口を眺めてそれを気にしていただろう。
いいか、お前のように神経を過敏にして、毎日、傷口や病気を気にしていたら、
治る病も治らないし、傷口だってふさがらない。

病を治す秘訣は、この犬のように病や悪いことを忘れてしまうことなのだ

健康を回復させ、また保ちたかったら、心の状態をまずプラスへ持っていく、
かりにもマイナスの気を呼び込むようなことはするな、
心に負担を与えるようなことはするな、ということになる。

治らないと思い込んでいたのでは現実もそのとおりになるぞ、
と言っているのである。


− 『ヨーガに生きる』 おおい みつる著 −より


(2007年  10月)

はるか昔には、日本には茶というものは存在しなかった。
平安の時代、遣唐使とともに、中国から渡ってきた。
茶は精神を落ちつかせ、眠気をさますものである。
昔の中国の医者たちは、
人の身体から油を抜きだすとして茶はよくないといっていた。
だが、今では朝から晩まで茶を飲んでいるが、
身体に悪い影響はないようだ。

しかしだからといって一度にたくさんの茶を飲むのはよくない。
抹茶は茶の成分が強い。
煎茶は、茶の葉を煎ったり煮たりするので穏やかだ。
日頃は煎茶を飲むのがいい。

食事のあとに、熱い茶を飲み、消化を助け渇きを癒すのはよいことだ。

茶に塩を入れてはいけない。腎臓を悪くする。
空腹のときは、茶を避ける。胃腸を悪くする。
濃茶を多く飲んではいけない。気持を沈ませるからだ。
虚弱な人や病弱な人は、新茶を飲んではいけない。
眼病、情緒不安、下血、嘔吐、下痢などがおこりやすい。


− 『養生訓 現代文』   貝原 益軒 著 ー
               森下 雅之 訳 より


(2007年 9月)

チャクラというのは
ヨーガの修業をつんだ人が見ることの出来る一種の光の輪のことである。
チャクラは人体の脊柱に沿って、
尾?骨から頭頂まで6つあるいは7つ数えられている。
臍のチャクラ及びより上位のチャクラは、
人間の意識に影響を及ぼす諸力を受け入れる入り口である。

憎しみの情動はすべて臍のチャクラに作用するが、愛の情動は心臓に働く。

愛は下の者に向けられるとき「慈悲」である。
上の者に向かう愛は「崇拝」である。
対等な者の間における愛の特質は「助け合う欲求」である。

憎しみは、下へ向けられるときは「軽蔑」であり、
上へ向けられた憎しみは「恐怖」である。
対等な者の間の憎しみは「傷つけあい」である。

愛とは霊的なものであり、憎しみは物的なものである


―  『チャクラ』 C・W・リードビーター著  ― より


(2007年 8月)

アーユルベーダとは生命の科学ですから、
単に病気や病人だけを対象とするのではなく、
洞察に富む生命観に従って、生命に包括的にアプローチするものです。
包括的という意味は、
病気を治すとか、体の部分を治すというだけではなく、
生命全体にアプローチすることで、

病気の治癒と健康の維持増進や長寿などを目的とするものなのです。

さらには、人生における役割の遂行、富や愛を得ること、
そして「自己実現」つまり解脱や悟りという
人間としての進化を目指すことを究極の目的としているのです。
つまりヘルス以上のウェルネスを目指しているのです。


−  『なぜ人は病気になるのか』 上馬場 和夫著 − より  


(2007年  7月)

ヨーガとは心の働きを滅することである。
そのときには、見る者(真我)は自己本来の状態に安住する。
その他の場合には、真我は心のはたらきと同じ形をとる。
心のはたらきは5種類で、煩悩性のものと非煩悩性のものとである。
心のはたらきは、修習と離欲とによって滅せられる。
修習とは、心のはたらきを静止する為の努力である。
修習は、長い間、中断されることなく、専念して実行されるとき、
堅固な境地に到達する。


− 世界の名著T 『バラモン教典・原始仏典』 − より


(2007年 6月)

インド精神は2つの面をもっている。
すなわちヴェーダとヨーガとである。
インド精神のもつ多彩な着想のなかにあって、
ヴェーダはバラモンたちの祭式のうえでの技巧,
ヨーガはヨーガ行者たちのある種の行動に対する熱情といえよう。
ヴェーダは知識であり、ヨーガは力である
ヨーガは一種の使命であり、厳しい肉体鍛錬なのであって、
信ずることとか知ることではなく、絶対的孤独の中での試練である。
この絶対的孤独は、群集の中にあっても現存する。

− 『ヨーガ』 ポールマッソン・ウルセル著 − より


(2007年  5月)

幸福な人生というのは、
精神と肉体ともに病気に冒されていない人、
若々しく、能力にふさわしい体力、勇気、名声、
すぐれた行為、大胆さを持っている人
知識、学問、
元気な感覚器官とその器官の対象となるさまざまなものを持っている人
富と楽しみがあって、
好きなこと何でもやってみることが出来て、自由に行動できる人
こういう人の人生は、幸福な人生である。
そうでない人は、不幸な人生である。

− 『アーユルヴェーダ入門』 クリシュナ・U・K著 − より


(2007年  4月)

心の清澄を保つにはこのスートラを覚えておくとよい。

幸福な人に出会ったら、友愛の鍵を使い・・・『慈』
不幸な人に出会ったら、憐憫の心を持ち・・・『非』
徳の高い人に出会ったら、欣喜し・・・・・・・・『喜』
邪な人に出会ったら無関心の態度をとる・・・『捨』

相応の鍵を相応な人に用いれば、
あなたは、あなたの平安を保持することができる。

ヨーガスートラ T章33節

− 『インテグラル・ヨーガ』 スワミ・サッチダーナンダ著 − より


(2007年 3月)

あらゆる場所に水を求めて、
井戸や浅い穴をいくつも掘ってはいけません。
一箇所に深い穴を掘りなさい。
一つの井戸からたっぷりと水を飲みなさい。

複数の人や、複数の霊的な道に従うと、
混乱してジレンマにおちいります。
1つの意志は1つのことをあなたに命じ、
別の意志はまた別のことをあなたに命じます。

すべてに耳を傾け、1つに従いなさい。
すべてを敬い、1つを崇拝しなさい。


− 『瞑想をきわめる』 スワミ・シヴァナンダ著 − より


(2007年  2月)

自制心は書物の勉強から学ぶ事はできません。
問題と苦難だらけの試練のときにこそ、自制心が育まれるのです。
人間にはたくさんの欠点が潜んでいます。
苦しい状況のなかで、それらの欠点が
怒り・恐れ・傲慢さ・憎しみといったかたちで現れてきます。
そのようなときこそが、自制心を実行に移さなければならないときなのです。

善い行いに対しては善い行いを返すことができます。
しかし、悪い行いに対して善い行いを返す事は特別な資質であり、
そのような美徳を実践するには相当の力量が要求されます。

どのような状況においても、自制心を失うべきでなく
不動の心で内なる平安を楽しんでいるべきです。

− サイババの御言葉集より −



(2007年 1月)

幸せは自分の心の内にある、
輝きも、平和も、やすらぎもまた。

宇宙の真理を求める人は
自分の内をみつめることから始める。

永遠不滅の真理は、すべての物の中に在り、
すべての物は、不滅の真理に帰る。
永遠の真理には、
上下も生死も、区別がない。

〜 スワミ・シヴァナンダ 〜

− 「ヨーガとからだの科学」 スワミ・ヨーガスワルパナンダ 著 − より


(2006年  12月)

たとい 100歳の寿(いのち)を得るも
無上の法(おしえ)に 会うことなくば
この法(おしえ)に会いし人の
1日の生(しょう)にも及ばず


よき経(おしえ)を いかに多く読むとも
怠りて正しく行なわずば
人の牛を数えるに似たり

−  「法句経入門」 松原泰道 著 より −


(2006年  11月)

他の何者でもない、われわれこそが、われわれの苦しみに対する責任者である
われわれは結果であり、われわれは原因である。
それだから、われわれは自由なのである。

もしわれわれが不幸であるなら、それは私自身のなせるところであって、
このことがそのまま
もし私が幸福になろうと思えばなれる、ということを示しているのである。
もしわたしが不純であるなら、これもやはり私自身のなせるところであって、
この事実がそのまま
私はなろうと思えば純粋になれる、ということを示しているのである。

人間の意志は、一切の環境を克服するであろう。
それの前には、すなわち人に内在する強い、巨大な、無限の意思の前には
すべての力が、自然力さえもが、頭を下げ、屈服し、
それの召使とならなければならないのである。

これが、カルマの法則の結果である。

− 日本ヴェーダーンタ協会 「カルマヨーガの講和」 − より


(2006年  10月)

ウポワズ(お断食)とは、
自分の本性である神に還ることである。
自分を捨て、謙虚な心になって
大自然に全託する至高の行法である。

ウポワズ行法を実践していると、
食べない楽しみを味わう境地が生じてくる。
空腹時の心身の爽快感を味わえる人間になることは、
貪欲のカルマからの解脱である。
次元の高揚を示す。

 − 「釈尊の食法とウポワズ」 前田 行貴著 − より  


(2006年  9月)

危険から護られるよう祈るのではなく
恐れることなく直面しよう。

わたしの苦しみの納まることを願うのではなく
それを克服する心をこそ願おう。

人生の戦場で同盟軍を求めるのではなく
われわれ自身の力をこそ求めよう。

救われることを心配しながら求めるのではなく
わたしの自由を勝ち取る忍耐をば望もう。

わたしが、自分の成功のためのみに
あなたの慈悲を当てにする卑怯者ではなく
わたしの失敗の中にあなたの手の握りを発見する
勇者でありますよう。

 「果物採取」  ラビンドラナート・タゴール著 −  より

 
(2006年  8月)

食物は 命(プラーナ)あるものの 命(プラーナ)なり
世の人は 食物を競い求めるものなり

顔色も、気分も、美声も、命も、聡明さも、幸福も、
満足、滋養、体力、智恵も、全ては食物に依存している

口に糊する世俗の行為も、天界へ赴く祭式行為も、
解脱のためといわれる行為も、みな食物に依存している

− [チャラカサンヒター T−27−349] − より